【とにかく子どもの面倒をよく見る、大倉山藍田学舎学長からのメッセージ】『自分が思っている限界の向こう側に進む為に【1】』

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『勉強につまずかないためにすべき重要なこと【1】』

『勉強につまずかないためにすべき重要なこと【2】』

『勉強につまずかないためにすべき重要なこと【3】』

『勉強につまずかないためにすべき重要なこと【4】』

限界は己の思う所の先にある。

「冉求(ぜんきゅう)曰く、子の道を説ばざる(よろこばざる)には非ず(あらず)。力足らざるなり。子曰く、力足らざる者は中道にして廃む(やむ)、今汝(なんじ)は画れり(かぎれり)。」

という言葉が論語にあります。
この文書の意味は、孔子の弟子である冉求と言う人が「先生の言っておられる生き方を実行するのは、私には無理です。できません」と言います。
それに対して孔子が「力のない者が途中であきらめ、投げ出すのは仕方のないことだが、君は行動する前から自分自身の力の限界を決めてしまっているだけだ。」という意味です。

最近、様々な人達と触れ合う中で思うのですが、自分自身で自分の能力の限界を安易に決めてしまい、諦めることに慣れてしまっている人達が非常に多いように感じています。
「失敗を恐れるがゆえにそう思うのか?単に頑張ることができないのか?」
やる前から無理かもしれないということを言う人達は、もう少し頑張れば成績が伸びる所まで来ていているのに手を休めてしまったり、すぐに「わかりません」「習っていない、見たことがないから無理です」「これ以上は覚えられません」等、自分で限界を安易に決めてしまっています。

私はそういった場面に遭遇する度にとても寂しい気持ちになります。
何故に、今までに体得した知識や知恵を総動員して、目の前にある問題を何としても解いてみようと思わないのでしょうか?どんな問題でもすぐに諦めずに色々と試行錯誤して己の力で目の前に立ちはだかるその問題を解くことに執着しないのか?諦めるのが非常に早すぎるように思います。

また、わからなければ白紙といったケースが非常に多く見受けられます。
「なぜ問題文を自分の手で書いてみて、咀嚼を深めようとしないのか?」
「問題文から読み取れる手掛かりから図形を書き、問題文に線を引いたりするなどの足跡をしないのか?

頭の中で考えているだけでは、難問になればなるほど解けるはずがありません。

わからなければ白紙という諦め方には非常に問題があるように思います。
いわば、山登りに行き、目の前に立ちはだかる山の大きさに圧倒され、無理だろうという想像だけで、登りもせずに、頂上から眼下に広がる美しい景色を見ることなく下山するようなものなのです。


限界を超えていく日々の作業

私は常々、「限界は自分がつくる」ものだと考えています。

ゆえに何かに取り組んでいて出来ないことがあったとしても、時間を掛けてでも必死に取り組めばできるようになるはずだと自分自身に言い聞かせて、「出来ない」「無理だ」ということをなるべく言わないようにしています。

「もしかしたら出来るかもしれない。そして、解決できる突破口があるかもしれない。」
と常にどんな時でもそう思うようにしています。

「何事にもすぐに諦めずにあらゆる可能性を視野に入れてその問題を分析し、一つ一つの可能性をつぶして確認していく」ということが大切な作業だと思っています。
この作業は、受験勉強を勝ち抜くためにも必須の哲学となるのではないでしょうか。
こういった思考を携えていればどんなに受験勉強の難しい問題で限らず、日常に潜む諸問題であっても解決出来うる可能性がきっと増えていくはずです。

もちろん、私自身がこういった意識で完璧にどんな問題にでも対処できるのか?と問われたら100%出来るとは言えません。しかし、少なくとも、どんなに難しい問題であっても最後まで諦めずにしつこく取り組むようにしています。もしそこで、問題を解決することが出来なかったとしても、その問題を通して得られたことで次に似たような問題と出会ったとき違った角度で物事を見ることが出来るようになるからです。 だからこそ、私はご縁あって出会う人達に、勉強をすることの素晴らしさや得られた結果の素晴らしさではなく、勉強やその他の問題に対して諦めずに取り組む過程がいかに大事で素晴らしいことであるかを伝えたいと強く思っています。

『限界の向こう側【2】に続く』

大倉山藍田学舎 学長 小野修一郎

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