「保護者の皆様へ。そして夢を諦めない君たちへ。」
大倉山に個別指導、寺子屋式の私塾があります。その名も「藍田学舎(らんでんがくしゃ)」
先祖代々教育者によって受け継がれた、小さな私塾です。
2008年開校、小野修一郎が学長を務める藍田学舎とはどんな塾なのか。藍田学舎が考える教育方針とはどういうものなのか。小野家のルーツとともにお伝えします。
※2022年4月より塾名を大倉山藍田学舎より『藍田学舎』に変更し運営して参ります。
藍田学舎 創立の背景
藍田学舎生みの親、大倉山藍田学舎のルーツ 小野述信とは
藍田学舎の学長である小野修一郎は、山口県萩出身の小野述信という祖先(高祖父)を持ちます。
小野述信は幕末の長州藩の国学者であり、長州藩藩校「明倫館」の小学師匠を務めました。
明倫館は井上馨、桂小五郎、高杉晋作、乃木希典、吉田松陰ら明治維新の志士達を輩出した名門です。
また小野述信は明倫館に隣接する一般市民向けの学校「敬身堂」において教鞭を執りました。一方で吉田松陰が主宰した「松下村塾」においても、村塾の後継者である松陰先生の兄、杉民治と深い繋がりを持つとされている。
明治維新後、小野述信は新政府において官僚として教部省に従事。
その後群馬県師範学校(現・群馬大学)の校長となります。
そして晩年、息子である小野徳太郎と共に後輩たちへの教育を生涯を通じて行う。
その後、小野述信から教育という灯を引き継いだ小野徳太郎が私塾『藍田学舎』を創設し、若き後輩たちへの教育に生涯を通して尽力しました。
『私は教育へ生涯を通して尽力した小野述信、小野徳太郎は、何を思い、そして何処へ向かったのかを知りたい。そう考えるようになったのです』
『大倉山藍田学舎』創設・HPをリニューアルへ
『私は2020年の秋に萩へと向かいました。
私にとって萩は初めてのことでした。今こそルーツを辿るときと直感したのです。
教育者を先祖に持ち、私塾の源流の血をひく身であるならば、教育に身を捧ぐ天命があると確信に変った瞬間でした。
子ども達への教育を通して未来に貢献できればと考え『藍田学舎』の名を祖先から拝借し、2008年7月、私の生まれ育った大倉山の地に『大倉山藍田学舎』を創設しました。
それから12年が経った2021年。
私が代々受け継いだ私塾で、教育を通じて今の子供たちにもっと貢献出来ることがあるだろうと考えました。
私の歩んできた経験や体験を子供たちへ伝えていくことが使命だと感じたんです」
※2022年4月より塾名を大倉山藍田学舎より『藍田学舎』に変更し運営して参ります。
医学部を諦めた小野修一郎、塾講師としての決意
失敗からの教訓を伝えるために
私には、医者になる夢があり大学医学部を目指しました。
今となっては幸か不幸か、4浪をすることになったのです。
4年間という時間は、ダメな自分と嫌でも向き合い「うまくいかない自分」との壮絶な闘いの日々でした。
しかし結局失敗に終わりました。
私は医学部への悔いを残して理系の学部に入学しますが「この失敗を通して学んだことを伝えることが仕事になるのでは?」と考えを改め塾講師として走り出したのです。
医学部を目指すという夢の続き
『大倉山藍田学舎』開校後、医者を目指す栄光学園の生徒が、私を頼って当塾にきてくれました。私は自分の夢の実現と重なり「この子に自分の弔い合戦をしてもらおう。同志となって一緒に闘おう」と決心しました。同時に、医学部を目指した自分の勉強法は間違っていなかったことを証明しようと思ったのです。まさにリベンジを果たす闘いでした。
長く辛い闘いでしたが、最終的に完膚無き迄に志望する医学部を全勝したのです。そして私は伴走と支援という形で夢を叶えることができました。
「先生の教え方で勝ったんです」「先生の負けを帳消しました」と言ってくれた彼の言葉を生涯忘れないでしょう。
子どもにしっかりと向き合い、夢を諦めずともに歩もう。
私塾である強みを生かし勉強を通じて二人三脚で取り組むことで得た体験は、これからの子ども達の人生に大きく影響するに違いありません。
文教エリアである大倉山で『藍田学舎』をリニューアルスタート
昨今の学習塾は、営利中心の予備校や大手チェーン展開の学習塾が主流です。
私は学力を求めるだけの教育機関としてではなく、日々の学習に対して期待や不安を抱える子どもたちに、「勉強の本質」とは何かを常に伝えながら、地域に根ざした学習塾の実現を目指します。
そして、これまで培ったノウハウと人脈を『大倉山藍田学舎』に集約して、2021年、学習リテラシーの高い大倉山で再出発いたします。 ※2022年4月より塾名を大倉山藍田学舎より『藍田学舎』に変更し運営して参ります。