【とにかく子どもの面倒をよく見る、大倉山藍田学舎学長からのメッセージ】『自信を持つ事とは ② 』

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『自信を持つ事とは ① 』

教科と一体化するとは。

今回は「一体化」「無我」といった言葉について、具体例をあげて考えてみたいと思います。

例えば、受験生の成績が急激に伸びる時、一体何が起こっているのでしょうか?
受験生の多くは、「中々成績が伸びない」「模試の偏差値が上がらない」「勉強の仕方に一貫性を持てない」という不安や焦りばかり募らせて、勉強に集中できないことで悩みを抱えることがあるでしょう。
しかし、入試本番が近づくにつれ「やるしかない」「弱点と向き合うしかない」と腹をくくると徐々に集中力も高まり、成果として成績が急上昇し始める子供達も出始めます。
そうすると、それまで断片的にでも覚える作業をし続けて詰め込んだ知識が一つの意味あるものとして急に体系化される瞬間が来る時があります。
これは、目的意識が薄い状態で勉強している時には無意味に思えた薄く小さな知識の一つ一つが、問題を解くために欠かせない大事な部品であったということに気づくことです。
それまで断片的であった知識の点が、直線的につながって全体が分かる瞬間です。
今までは一つの点でしかなかった知識が直線となって問題を解くための大きな武器になった時が、勉強している教科の分野と自分自身が一体化している状態なのです。

教科と一体化出来るようになると、気がつけばすでに何時間も経過しているぐらい集中できるようになります。
まさに我を忘れている状態です。
生徒達と特に国語の問題と対峙していると「先生。国語の問題文を読んでいたら内容に引き込まれ、その文章があまりにも良い文章だったので感動しました」と言われる時があります。
そのような時は「文章に感動したか」よりも「正解を導き出せたか」の方が気になるものですが、私の経験上こういう子は成績が上がると確信しているため、私は「良かったね、集中できたね。」と褒めることにしています。
特に「国語の問題文に感動出来る」子供達の成績向上率はかなり高いものです。

「無我」

「受験期に急激に学力が伸びる子」と「問題を解いている最中に感動出来る子」に共通するのは、勉学に勤しむ行為と一体化していることです。
そこには「解ける・出来る」という喜びだけがあり、「点数を上げよう」「合格したい」といったある意味の邪心がない状態です。
どちらかというと「問題を解く」という行為に入り込み、それを楽しんでいる状態、これこそが無我の境地です。

同じようなことは仕事でもよく経験します。
何かを企画し皆で目標を達成しようとするときに、誰でもが「うまく行くかどうか」心配します。
いくら上司が「この企画を達成したらこんないいことがある」と旗を振ったところで、皆が皆やる気と希望に満ち溢れて無我夢中に頑張ることは中々ないでしょう。
むしろ結果に拘らず、目の前にあるやるべき課題そのものに全力で取り組むように導く方が、部下にとっては良いと思います。
自信があろうとなかろうと目標を達成しようがしまいが、そういうことに頓着するのではなく、いかに自分の能力を使ってこの状況から成功に繋げるかを焦点にし、各々がやるべき仕事や対象と一体化することこそ一つの成果はあげられるものでしょう。

対象と一体化し深く掘り下げることで、新たなアイディアや気づき、インスピレーションが湧いてくるものです。
そして湧いてきたその時は既に自我=エゴは消えています。
むしろ仕事という一つの行為、行動を楽しんでいる状況です。
同じ結果に向かう仕事を通してつながる仲間たちの多くがこのような状況にある時、様々な困難があっても奇跡的に物事がうまく回りいつの間にか目標が達成されているということになるのでしょう。

だからこそ「無我」ということは決して難しいことではありません。
物事に熱中し、我を忘れ楽しむことが良い結果を生むということに過ぎないからです。
成果を上げよう、他人にどう評価されているか?失敗したらどうする?という煩いは、必要のない自我であり、そういった我が物事の達成を邪魔しているのだと気づくべきです。

人が何かを成す時は「出来るか出来ないかではなく、臆せずチャレンジする勇気のほうが大事である」ということです。
勇気と言っても蛮勇ではなく「やるしかないのならきちんと向き合おう」という誠意であり、自分を試す機会と捉える前向きな姿勢なのです。

大倉山藍田学舎 学長 小野修一郎

一歩踏み出す、諦めない気持ちはスポーツ競技と同じ