【とにかく子どもの面倒をよく見る、大倉山藍田学舎学長からのメッセージ】 『何故勉強をするのか【1】』

どうして勉強をしなきゃいけないのか。

長年生徒達に勉強を教えるという仕事をやっていると、こんな疑問をぶつけられることが多々あります。

「どうして勉強しなきゃいけないのか?」

この素朴な疑問に明瞭に答えることはとてつもなく難問です。何故か?自分自身も中学生の頃、明確な目的意識を持って勉強していたのかと自問自答してみても、やらなければならないから、定期テストがあるから、高校に行かなければならないからといった漠然とした意識の中で生活していたように思います。しかし、皆足並み揃えて勉強しています。そこが、問題になってくるのではないでしょうか?

私は、そもそも「勉強はしなければならないもの」という義務感が日本人に染み込んでいるからであると思っています。それは、多くの日本人にとって勉強とは楽しいものではなく、例えば試験のために渋々やらなければいけないものであり、「良い学校に入るためには仕方のないもの」という諦めに近い固定観念が強固に植えつけられたからではないでしょうか?

それに対して大人達がいくら「勉強は本来楽しいものであり、人には知る喜びに裏打ちされた知的欲求がある」などと説いてみても、勉強は嫌々しなければならないものと裏打ちされてしまっている状況下では説得力をもたないでしょう。第一「なぜ勉強しなければならないのか?」と問う生徒自身が本気で勉強の意義について深く悩んでいるわけではなかったりします。それは、私達が「勉強したくないならしなくても良い。テストも全部白紙で出しなさい。」などと言おうものなら、「先生、それはマズイですよ」と真顔で心配してみせます。勿論、何故勉強しなければならないか真剣に悩む生徒もいるでしょう。中学2年生くらいで勉強の意義、必要性について自分なりに悩む子はそれなりに納得し、かえって一生懸命勉強する子になる可能性は高いと言えるかもしれません。しかし、大抵は勉強は嫌いだけどやっぱりやらないといけないのだろうなと考えています。むしろ、「仕方なくやる」義務だという前提がある以上、何故勉強するのかは疑問として浮かびにくいでしょう。現に「どうして勉強するのか?」と聞く生徒も本当に疑問だからというより「勉強したくない」という愚痴を述べているに過ぎないのではないでしょうか?

であるならば、逆に「君はどうして勉強しなければならないと思う?」と問うと「だって勉強しなければならない」、「将来困る…」、「皆も勉強しているし」、「親が勉強しなさいと言う」と生徒自身が答えるでしょう。“将来困る”というのは明らかに学校の先生や親など周囲の大人達の受け売りに過ぎません。私達大人達も、子どもの頃、先生や親にそう言われてきたに違いなく、その頃の大人達もまた子どもの頃言われてきたことでしょう。

固定概念?

日本人は近代化以来ずっとこのように「勉強しないと将来困る」と説得されてきました。しかしこのような説得がリアリティを持ち続けたのも高度成長が終わる頃までです。現在のように『勉強する→試験に受かる→良い学校に入る→安定した生活』という単純な図式が通用しなくなったこの時代では、急速にそのリアリティが失われつつあります。
だからこそ「どうして勉強しなければならないのか?」という疑問に答えることは難しくなりました。極端に言えば、近代化以降百数十年の日本の歴史上、初めて「将来のために勉強する」という理由が意味を失った時代に生きているからなおさらです。

さて皆さんはどう答えますか?

Q.「どうして勉強しなければならないのか?」

A.「将来に備えて」…というやりとりは今の子どもたちにとって昔ほどの説得力はないでしょう。「将来に備えて」→「良い学校を出て」→「良い会社に入り」→「安定した生活を送る」という意味なら、そういう図式はとっくに崩壊しています。学歴の獲得が社会的ポジションに結びつく現実は確かにゼロではありません。むしろ、近道となることは確かでしょう。しかし、学歴や資格などを有する公務員など一部の分野に限られていますし、一生を保証するものではないでしょう。今後はむしろ個人の才能・実力の方が物を言う時代になるはずです。単なる「学歴獲得の手段」としての勉強は何ら「将来の安定」を約束しません。つまり勉強することのメリットが昔のように目に見える形で存在しないのですから、今の時代に生きる子供達の勉強意欲が低下するのは当然といえば当然なことになります。しかし、学校も大人達も相変わらず昔の論理性である「将来に備えて」を掲げ、子供達を勉強に駆り立てようとすることで悪循環を生み出しています。

子供達に「勉強の面白さ」を伝えるには。

では、どうすれば子供達が自発的に勉強するようになるのか?子供達の勉強意欲が復活することは可能なのでしょうか?

私は、こういった悪循環を打開するためには教育を施す人間達が『情熱を持って教育、勉強の面白さを伝える』ことが一番であると思っています。勉強すること自体の面白さを伝えるというと、たちまちそれは理想論に過ぎないと言う人達がいます。そう言う人達は勉強を面白く思った経験がないか、そもそも勉強など面白いはずがないと思いこんでいるかどちらかでしょう。確かにそれは無理もないことでしょう。現代の日本において多くの人達は「勉強」にトラウマを持っています。勉強といえばテストや入試のために、テキストに書いてあることを無理矢理詰め込んだ経験しか持たない人が多いからです。

しかし、それでも勉強の面白さに目覚める幸運な人達もいます。多くの場合良い先生に出会えた場合などが最たるものでしょう。良い先生とは、第一に「自分の教える教科の面白さを何としてでも伝えようとする」先生であったはずです。そして、第二に「その面白さを伝えるためにあらゆる工夫をしてくれた」先生でしょう。また、「自らも常に勉強し続けている」先生でしょう。それは、先生が面白いと感じていなければ生徒にその教科の面白さは絶対に伝わらないはずだからです。客観的に考えると、教師とは受け持つ教科のすばらしさを感じ、それを何としても伝えたいという人であるはずです。しかし残念ながらこの最低限の条件さえ満たさない教師が世の中には多いのも実状でしょう。そういった要因が、生徒達が「勉強に興味関心を持てなくなる」「自発的に勉強をしなくなる」最大の要因であると考えられます。では、先生という教育者、学校という教育の場だけが問題なのでしょうか?

それは違うのではないでしょうか?教育者は本来、世の大人達全ての人達であり、世の中自体が子供達の教育者であり教科書でなければならないのではないでしょうか?元来、子供達は無知な生き物です。私達も様々な場所で様々なシチュエーションで吸収し成長してきました。それは、大人達や大人達が作る世の中が正しき道をあらゆる方法で指し示してくれたからでしょう。そして、今も昔も教育の現場が最も正しい知識、倫理観などを指し示す場として最適な場であるはずです。ですから、今こそ未来ある子供達に対し、特に教育者は、時に情熱的で時に厳粛に子供達に接しなければならないでしょう。そして、どうやって生徒達に「勉強の面白さ」を伝えていくのかを建設的に考え、創意工夫をしていく必要があるでしょう。それには、まず人間には生存欲求の他に「知りたい」欲求が本来備わっている事を自覚し、人間の知への欲求が自己保存の欲求と同じくらいに強いものだと自覚することから始まるでしょう。そして、体力的にもひ弱な人間が生き残るために様々な情報(知識)を集めて体系化し、蓄え、社会を作り、科学を発展させ文明を築いてきたことを正しく認識する必要があるでしょう。もし「物事の真理」を追求する事をしなかったら人類はとうの昔に滅亡していたからです。

私たちの「知りたい欲求」は基本的には目に見えるものです。そして、知りたい欲求を満たそうと努力する事は、現象の因果関係の探求にとどまらず、その背後にある法則を見いだし、それを他の事象に類推する事で抽象化し予見する能力へとつながっていくはずです。多くの法則を見出した偉人達はそうやって諸法則を見出してきました。人間にはこのような力が潜在していることを勉強を教える側がまず信じることがスタートとなるでしょう。その上で生徒達にも次のことを伝えなければなりません。勉強の動機付け上重要なことだからです。すなわち「知を獲得することは人生を豊かにすること」につながるということ。豊かさというのは物質的なことではなく、人生の質を向上させ、彩りのあるものにするものであると言えるということを理解する事です。

『何故勉強をするのか?【2】へ続く』

大倉山藍田学舎 学長 小野修一郎