【とにかく子どもの面倒をよく見る、大倉山藍田学舎学長からのメッセージ】『何故勉強をするのか【2】』

非日常を、日常へ。

最近読んだ本にこういう例がありました。

ある生物学の教室で初めて実習を行う学生達に、例えばネズミの臓器である肝臓の切片を顕微鏡で観察させ、見えているものをノートにスケッチさせる。すると彼らは幼児の絵のように形の定まらないグニャグニャなものを描いてしまう。しかし実は肝臓の細胞は彼らの視野の下に一粒一粒くっきりと見えているはずなのです。教官やベテランの学生が見るとくっきり見えるものが、初心者の学生達にははっきり見えないのです。

つまり、それらの細胞が「どのように見えるか」を既に知識として知っていて、どの輪郭が細胞1つ分の区画であるかを頭の中に経験値として持っているからはっきりと見えるのです。逆に、初見で細胞を見た生徒にとってリアリティーは突然表れたものであり、認識に至るまでにはなっていないのです。

経験を力に。〜ゴールの先に見えるものは〜

以上の例から私達が「見ている」と思っているものは、実は本当の姿は見えていない。私達の見ているものは無秩序であって真実ではないということです。

知識があってこそ初めて『真実』を見ることができるものであるということではないでしょうか?これは経験に置き換えても同じことが言えます。私達は日々大小様々な事を経験しますが、その経験の意味するところや得られる教訓は、知識の深浅に応じて大きく異なるでしょう。例えば2人の人間がいて、2人が一生に100の経験をしたとしても、知識や教養を使い経験を体系(秩序)化する人はその経験を200にも300にも出来得るでしょう。しかし、知識や教養を整理する事ができない人は経験の意味を人生に生かすことは出来ないでしょう。

人間は誰でも「知りたい欲求」を持っています。そして本質を捉えた真の知識を獲得することは、人生を無駄に生きることを回避し、物の見方を鍛え、小さな出来事にも意味や法則を見つけ出し、人生を味わい深く意義あるものにする可能性を高めてくれます。つまり、外見的にはどうあれ人生を豊かに過ごすことにつながるはずです。勉強する、様々な事象にアンテナを張るという意義等の全ては、「見たものや知りえた知識の整理ができるかどうか」なのではないでしょうか?

その為に私は勉強する子供達へ「物事の本質を見抜く力」を伝えてあげたいと思っています。日々の積み重ねが生む軌跡と奇跡は必ず健全な哲学や道徳心を育みます。そういったことが健全な心を育て、健全な頭を育てる事になるはずです。

『何故勉強をするのか?【3】へ続く』

大倉山藍田学舎 学長 小野修一郎