【とにかく子どもの面倒をよく見る、大倉山藍田学舎学長からのメッセージ】『勉強につまずかないためにすべき重要なこと【2】』


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『勉強につまずかないためにすべき重要なこと【1】』

上手い人・出来る人・強い人ほど、基本の型を磨き上げる。

かつて大倉山藍田学舎所属していた宮﨑久選手もよく言っていました。
「速い選手、強い選手ほど基本練習に力を入れています。基本練習はどこにどのように作用するか、意味があるのかをしっかりと意識して練習しないと意味がないのですよ。」

実際、彼の基本練習は中学生・高校生と変わらない内容でした。しかし中高生との大きな差は、その基本練習を忠実に、完璧に体現しているところでした。私がその基本動作を行うと、体が曲がっていたり、傾いていたり、ふらついてしまったりします。一方で宮﨑選手は完璧にきれいな姿勢、形どおりに動いて見せます。

「基本練習を完璧に行う事が理想形が作られていくと意識すること」を怠らないことが一流であることを彼を通して学びました。
一流選手だからといってなんら特別なことをしているのではないのです。
ごく当たり前の動作をごく当たり前にできることこそ一流なのでしょう。


宮崎選手と小野修一郎

それぞれに合った「型」

最近私が読んでいる本の古武術を例としてあげてみたいと思います。
古武術の体の使い方は、私達の普段使っている身体の使い方とはまったく異なります。いうなればまったく逆の動きになります。
勿論、現代に生きる私達にとって古武術の動きは一長一短があるでしょう。しかし、先人達が築き上げ、現代にまで伝承されてきた古武術にはある独特な一貫性のある型がある事が解っています。私が読んでいる本の中に登場する武道家の甲野善紀氏の三方斬りは、実際目にした人達には速すぎてちゃんと切れているのか疑ってしまうほどだそうです。甲野氏も若い頃は徹夜で木刀を振る事があったそうで、当時いくら速く動こうとしても決してこの速さには達しなかったそうです。そしてそれは、どうしても筋肉に頼った(古武術とは違う)動きになってしまったからのようです。古武術の動きは現代の日常生活では現れない、いわば「不自然な」ものですが、きちんと身につければ絶大な効果を発揮してくれるもののようです。

何故、古武術を例に出したかですが、実は宮﨑久選手の100m走のタイム向上の為に古武術の動きから何らかのヒントが得られないか、と模索していたからです。そういった中で気がついた事は、私達の日常での身体の使い方と古武術の体の使い方の関係は、日本語の感覚と英語の感覚の違いに近いものがあるのではないかと思うものでした。

「自分の型」から離れてみてわかること

ある一つの事を探求するという事は、時として探求しているもの以外のものへ何らかのヒントをもたらしてくれるものです。
また、一つの事を一生懸命探求、研究する事が、様々な物事の要素や本質、果ては様々な可能性までもたらしてくれるものです。
つまり、「スポーツ」という一つの事象について探求する事が、「勉強」という違うフィールドの事象で何らかの大切な要素をも発見させてくれるものになるという事です。

物事の理というものは、どんなフィールド間においても、何か一つの法則・原理のもとに深くからまりあったものであると感じました。
日本語と英語の間にもそのような法則が存在するのか模索することは非常に興味深いものです。実際、英語と日本語には構造上の相違点があり、それを無視して日本語の延長線上で英語を捉えよう(例:英語を日本語に置き換え並び替える読み)といくら訓練しても、中々上達しないばかりか変な感覚が身についてしまう事もあります。

全く違う系統の2種類の方法があった時に、一方を訓練して上達したとしても、もう一方は全く上達しないという例です。
「型」の習得には自分にとって自然で心地よく感じていたものから、意識的に離れて違う方法を試してみる必要があるという事です。
つまりは、「日常から非日常」へ、それまでの習慣から「離れてみる事」が重要な要素となるのです。

「勉強につまずかないためにすべき重要なこと【3】』に続く。

大倉山藍田学舎 学長 小野修一郎