【諦めない心 藍田学舎学長からのメッセージ】『あきらめなければ夢は叶う第2章-②』

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『あきらめなければ夢は叶う第2章-①』

『あきらめなければ夢は叶う第1章-③』

『あきらめなければ夢は叶う第1章-②』

■夢をあきらめなかった宮崎久選手のこと

こんにちは、藍田学舎・学長 小野修一郎です。

目標に向かって頑張っている皆さんに伝えたい「あきらめなければ夢は叶う」というメッセージ。その実例として、第1章では元世界陸上代表選手の宮﨑久選手について書きました。今回はその後編第2章‐②です。

■ボブスレーは「体重」との戦い

そこで宮崎さんは1日8食に変え、半年で20キロ体重を増やします。

しかし、求められていた体重に最大4キロ足りませんでした。そこで彼がとった作戦は、タイムトライアルの時に水をがぶ飲みすること。体重測定の直前にトイレに行き、隠していた2リットルボトル2本の水を一気飲みして体重を増やしたのです。

そこまでして宮崎さんはがんばりました。その甲斐あって、25人から15人、10人へのふるい分けに残り、ついに最終選考の5人に勝ち残ったのです。しかしそこからさらに、4人乗りと2人乗りの選手選考が始まります。

4人乗りの中のエース格が2人乗りに回ります。

私たち「大倉山藍田学舎チーム」の最大の目標は、4人乗りと2人乗り両方に乗ることでした。

彼は足が速いので「ケツ持ち」を担当しました。

つまり一番後でソリを押して、最後に乗る人です。傾斜の中でスピードが出てしまい、足が速くないと追いつかなくなるからです。

彼は速いので追いつけるのですが、文字通り飛び乗らなければなりません。ソリの底は薄くて硬い素材でできており、クッションなどもありません。ですので、お尻への衝撃がものすごいのです。彼の尾てい骨は骨折してしまったのかと思うくらい腫れ上がり、内出血で真っ黒でした。まさに死にものぐるいです。

そこまでやっているのに、当時の日本チームは出場権自体を獲得できていませんでした。出られるかどうかも分からない中、必死の努力を続けるのは大変だったと思います。しかも宮崎さんは初心者。時速120〜130キロで狭い氷のトンネルを滑り降りる恐怖は想像に絶します。宮崎さんも「二度と乗りたくない」と言っていました(笑)。

■夢を追う人の「伴走者」になりたい

そうした努力も実り、そして、遂には日本も出場権を掴みました。宮﨑選手も代表選手として無事オリンピアンに。しかも2人乗りにも出場したのです。29組中28位という結果でしたが、見事「オリンピックに出て日の丸を背負う」という夢を叶えたのです。

現在は高校の体育科の先生として活動され、陸上のコーチとしても活躍されています。

宮崎さんは一度夢に破れ、それでも諦めず努力したことで別の夢を掴みました。

でも、自分の夢に向かって努力することは「孤独」なことです。

それは受験生でも同じです。

特に受験はチームプレーではなく、自分の人生のためのもの。

だから、一緒に伴走してあげる大人が必要です。

その1人に、私はなりたい。

宮﨑選手共に歩んだように、夢を共有して、苦しさも喜びも共感して、共に戦う。

そんなふうに私は、子どもたちと常日頃から向き合って行きたいのです。

藍田学舎 小野修一郎

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