【諦めない心 藍田学舎学長からのメッセージ】『あきらめなければ夢は叶う第1章-①』
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夢をあきらめなかった宮﨑久選手のこと(1)
こんにちは、藍田学舎学長の小野修一郎です。
目標に向かって頑張る皆さんに私から伝えたいのはただ一つ。
「あきらめなければ夢は叶う」
本当に? みんなの夢が叶ったら夢とは言わないんじゃ?
もちろん、鳥のように空を飛びたいと願っても無理なように、叶わない夢はあります。でも、失敗の恐怖に怯えず、ポジティブであり続ければ、必ず大きな成果をつかめる、そういう心構えを、皆さんには持って頂きたいのです。
その好例を、このブログでたくさん紹介していきたいと思います。
まずは、元陸上日本代表選手でソチ五輪ボブスレー日本代表の宮﨑久選手のことを話さなければなりません。彼とは2009年の春にスポンサー契約を結び、大倉山藍田学舎所属 宮﨑久選手が誕生しました。当学舎の看板を背負って走ってもらっていました。
そう、『 復活から躍進 小さな塾から世界へ 』という目標を掲げ、その後、共に戦う4年にわたる壮絶な戦いが幕を開けたのです。
■血統書付きの野良猫がやってきた
出会った時、彼はまるで「血統書付きの野良猫」でした。
北京五輪400mリレー銀メダリストの末續慎吾さんと同学年で、同じ九州出身。高校2年の16歳で100m10秒28という当時の世界ジュニア記録を叩き出しました。棒高跳び日本記録保持者の澤野大地さんや、女子走り幅跳び日本記録保持者の井村久美子さん(旧姓池田)など、同世代の陸上のスターたちを末續世代と言いますが、高校時代の才能や実績からすれば“宮崎世代”と言われてもおかしくありませんでした。
彼は日本人の短距離走者としては珍しく身長183cmと大柄で、パワーもものすごくありました。まるで和製ウサイン・ボルトです。日本人で最初に9秒台を出すのは彼だと言われていました。ですが、高校3年生の時、そのパワーに肉体が付いていけず、肉離れという陸上選手にとっては大きな怪我をしてしまうのです。
その怪我をきっかけに、彼の陸上人生は下り坂になってしまいます。
10秒28という華々しい実績を携えて東海大学に入学するのですが、全く記録が伸びません。一方、一緒に入学した末續慎吾さんはめきめきと記録を伸ばしはじめ、あれよあれよ陸上界のスターになって行きました。
宮﨑選手の原因はマインドだったと私は思います。
高校3年生の大怪我によって、心が体にブレーキをかけていた。本当ならその現実を受け止めて、怪我をしない走り方を習得して行かなければならなかったのですが、彼は心が非常に繊細で、自分自身と真正面から向き合うことが出来なかった。今の現実を自分事(じぶんごと)として捉えられなかったんですね。
2003年のパリ世界陸上には男子200m・男子4×100mの日本代表選手として出場できたものの、200mで末續慎吾さんに圧倒的な差を付けられて予選敗退。かろうじて、男子4×100mでは、決勝第5位に入賞するものの、その直後からさらに深刻なスランプに陥ります。翌年のオリンピックには出場できませんでした。そう、人生最大の夢オリンピアンになれなかったのです。日の丸を背負うオリンピアンに.....
その後、全く勝てない。思うように走れない。当然スポンサー契約も打ち切られます。当時彼は結婚していて、2人の子供を養わなければなりません。どうにかして陸上で結果を出さなければ──そんな時、東海大相模高校陸上部監督に就任間近の私の弟を通じて、宮﨑久さんと出会ったのです。
血統書付きの野良猫──今もその様子を覚えています。他人が信じられない、そして自分も信じられない、そんな様子でした。
でも、まだ目が生きていました。
まだまだ自分はやれるんだ、やりたいんだという闘志の炎が、目の奥で燃え盛っているのを私は見て取りました。これは、受験生でも同じです。まだやれるのか、やれないのか。浪人しても目標を持って努力できるのか。それは目を見れば分かります。
当時、宮﨑選手の持ちタイムは、平均で10秒台後半から11秒くらい。彼の中学時代のレベルにまで落ちていました。アスリートとしてはもはや見向きもされないタイムです。それでも彼は9秒台を諦めきれない。最後のチャンスが欲しいという。
その思いに、私もかけてみようと思いました。
自己と向き合って、自分自身と戦う、それは受験と一緒。もし宮崎さんを立ち直らせることができれば、私自身にも大きな成果が残ると思ったのです。
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藍田学舎 小野修一郎
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